工藤公康監督の年俸と身長や出身校など豆知識【福岡ソフトバンクホークス】

福岡ソフトバンクホークスの監督である工藤公康氏。野球解説者から監督へ転身し、現在福岡ソフトバンクホークス首位の立役者。

そんな工藤公康監督に関する豆知識、年俸をはじめ、身長や出身地、出身校などについてまとめました。工藤公康監督に興味を持った方は是非理解を深めて下さいね。

※ちなみに、こちらは2015年のデータとなります。

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工藤公康監督の年俸は

工藤公康監督の年俸額は推定1億円。

12球団の中では、巨人の原監督に次ぐ金額となっています。球団の財政状況もあるとは思いますが、現役時代の活躍ぶりや知名度、メディアでの解説ぶり等総合的に評価された金額と言えますね。

 

工藤公康監督に関する豆データ

工藤公康監督の身長や出身校など豆データをまとめました。

 

工藤公康監督の身長体重は

身長:175cm

体重:80kg

今でこそポッチャリとした印象の工藤監督ですが高校卒業後、西武ライオンズ入団当初は身長も投手としては小さく、体もかなりスレンダーでとてもプロで通用する体型ではなかったそうです。
しかし、そこから224勝を挙げる日本球界を代表する左腕にまで成長し、長く現役を続けることになります。

一体そこにはどんな『変化』があったのか?

 

寮を抜け出して夜遅くまで飲んで、寝不足のまま次のマウンドに立ったりして、もう体はボロボロ。このままじゃ、工藤も終わりだなといわれた時もありました。

(中略)

ただ、その頃から自分の中で、遊ぶのは30歳までと決めていたんです。30歳を過ぎたら真面目に野球をやろうとね。27歳で結婚しましたが、それがよい転機になりました。内臓なんかボロボロだったのを見て、妻が食事を工夫してくれました。

真面目そうな工藤監督も実は20代の頃は遊び人だったようですね。ただし、それは”計画的な遊び”。そこから結婚や怪我を機に考えや行動が変わります。

 

「この痛みを治すにはトレーニングしかないね」

ハムストリングの肉離れ治療で、筑波大学の白木先生からこのように言われ衝撃を受けた工藤監督。

普通だと、痛みを取るためには療養するのが常識的な発想だとは思いますが、逆に筋肉をつけなければ怪我もするし疲労も取れないと。

怪我をしない体を作らなければ選手生命も短くなりますし、疲労回復が遅ければ登板回数も減ります。それを解決するのがトレーニングだったわけです。

こうして工藤監督の意識が大きく変わり、徹底した食事管理と厳しいトレーニングを行う事で48歳という年齢まで現役を続けられる体を手に入れたのですね。

 

工藤公康監督の出身及び出身高校

出身地:愛知県豊明市

出身高校:名古屋電気高

工藤監督が生まれ育った愛知県豊明市とは一体、どんな街なのか?

豊明市は名古屋市の東側に隣接する人口・約7万人の街。JRAの『中京競馬場』がありますね。(あまり関係ないですね笑)

それから、あの織田信長が今川義元を討ち破ったとされる『桶狭間古戦場跡』が豊明市なんです!知らない人が多いのではないでしょうか?

豊明市の出身者として工藤監督の他にもプロ野球選手はいます。

名古屋電気高出身で工藤監督の一年後輩、高橋 雅裕さんです。高橋さんは2015年から群馬ダイヤモンドペガサスの内野守備コーチとして選手育成に励んでいます。豊明市はそんなに大きな町ではないのに二人ものプロ野球選手が出るのは単純に凄いと思います。

 

そして、工藤監督の出身校である名古屋電気高についても少々。

大正元年設立、男女共学で正式な名称は『愛知工業大学附属名電高等学校』で、通称『愛工大名電』。学校法人名古屋電気学園が経営する私立中学校・高等学校です。

とにかくスポーツが盛んな学校で野球、バスケット、ゴルフ、相撲、卓球、フィギアスケートなど数え切れない程の卒業生がプロとして活躍しています。

工藤監督の他にはあのイチロー選手や兄弟揃ってプロ野球選手の堂上兄弟も同校の卒業生として有名です。

愛知県は高校野球激戦地区としても有名で愛工大名電の他にも享栄、中京大中京、東邦など甲子園常連の私立校が多く、甲子園で勝ち上がる事と同じくらい愛知県内を勝ち上がる事が難しいと言われています。

 

48歳まで現役を続けた工藤公康監督のターニングポイント

48歳という年齢まで現役を続けた工藤監督のターニングポイントとは一体どこだったのでしょう?ご本人がこのように発言しています。

3年目のシーズン途中に広岡監督からアメリカへ野球留学を命じられました。野球留学と言っても1Aのチームです。マイナーリーグであり、それも一番下です。ミールマネーという日当15ドルしかもらえず、1週間から10日間で結果が出ないとクビという世界です。野球を学びに行ったのですが、育成のプログラムも綿密な練習のメニューもありません。ただそこには大きな気付きがありました。それは彼らが練習を「やらされている」のではなく、自ら「やる」という姿勢で取り組んでいるということでした。練習の中でノックをして欲しい、特打をしたいとコーチに相談し、ノックをしてもらったり、投げてもらったりする。そういう世界でした。僅か3ヶ月の短い期間でしたが、僕の野球人生の大きなターニングポイントだったと思います。

ここで思うのは、広岡監督の意図は何だったのか?

「日本のプロ野球界とは180℃違う環境に身をおくことで、自ら気付き、そして体験を通して自分の中に野球の本質を落とし込んで来い。」

もしかしたら、このようなメッセージを込めて工藤監督をマイナーリーグの最下層へ送り込んだのかもしれませんね。

そして、工藤監督は肌で感じ取り気付いた。だからこそ48歳まで投げ続けることが出来たし、224勝という素晴らしい数字を残せたのでしょう。

 

『やらされているのではなく、自分からやる』という意識の転換。

ここから強い意思だったり目標だったり、独自性などが生まれてくるのだと思いますし、実際に工藤監督が結果として体現してくれていますね。

他人や環境に変わってもらうのではなく、自分自身が変わる努力をする。こうした強い気持ちがあったから今の素晴らしい工藤監督で居られるのだと感じました。

(上記引用元:ビズサプリ

 

【まとめ】

限界はいつか来るだろう。 周りが言うのは仕方ないが、 自分で作ってはいけない。

工藤監督は言います。

 

「自分は年だからムリ」「もう限界だ」それは自分自身が勝手に決めてしまった”壁”なのかもしれません。

人は辛いことや苦しいことには出来ない理由ばかり並べがちですが、そんな時こそ出来る理由や方法を考えるべき。

  • 仕事で疲れてるけどどうやったら出来るのか?
  • 今の自分にはムリだけど何か出来る方法はないのか?

アスリートだけではなく、私達の誰しもが少し意識を変えるだけで大きく人生を変えられる。工藤監督の生き様からはこれからも多くのことを学ぶことができそうです。

 

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